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『週刊少年チャンピオン』連載、「チャンピオンズ」の2話
私が尊敬する漫画編集長は二人います。一人はジャンプの発行部数を飛躍的に押し上げた三代目編集長の西村繁男。そしてもう一人が今回取り上げるチャンピオン二代目編集長の壁村耐三。先週から始まったチャンピオンの歴代編集長を漫画にする「チャンピオンズ」において、この人が登場するからには取り上げないわけにはいきません!

強面で ほぼヤクザ、ほとんどヤクザと思われるのが壁村。「ブラック・ジャック創作秘話」では編集長の机の上で水虫をマッチの火で焼く姿が描かれてました。編集部員は一同に怖かった印象が残っているようで、若手なんてウイスキーのツマミと氷の購入の使いっ走りをさせられていたようだ。
少年チャンピオンの二代目編集長になったのは1972年。その際、社長に「オレは徹底的にやりますよ」と話して認めてもらい、実行したのが初代編集長・成田が立ち上げた漫画をことごとく終了させたこと。「痛み無き改革は真の改革にあらず」の言葉を文字通りに執行したということ。もちろん編集部員は腹が立ったそうだけど、壁村の真の改革はここから。
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一話完結ものの導入です。大物作家だろうが若手だろうが同じルールで作ってもらうとのこと。またもっと子供の目線で物事を見ろ、それをやってくれるのなら全責任は俺が持つ! この言葉で編集部員の空気が変わったらしい。後に名物編集長と言われるだけに人心掌握術が長けていたようですね。

一枚岩となった編集部は空気の流れが良くなり、一人の編集部員が頭角を現してくる。それが三代目編集長となる阿久津邦彦。オヤジ雑誌に描いていた山上たつひこに目を付けて壁村の認をもらう。本人は刑事コロンボみたいなものを描きたいと言い、阿久津はギャグ漫画を希望。そこで出来たのが!
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がきデカでした!
何を隠そう、私が自分のお金で初めて買ったコミックスこそ がきデカなんです。この当時大人気だったんですよ。これにあやかって秋本治は「山止たつひこ」の名前でデビューしたことは語るまでもないでしょう。
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阿久津はその後も つのだじろうや、鴨川つばめを招へいして「恐怖新聞」「マカロニほうれん荘」をヒットさせ、水島新司「ドカベン」と共に70年代終盤の黄金期を確立させます。でも私がいま一番言いたいのは右下のキャラ。
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ふたりと5人じゃないかー!
つい先日亡くなった吾妻ひでおですよ。へー、チャンピオンには阿久津の勧誘で来たのですか。私が 初めて見た吾妻ひでおの漫画がこれ。懐かしいなぁ。

そして壁村といったら忘れちゃいけないのが手塚治虫との関係。でも当初は考えられないことをしたそうです。新入社員の時に原稿を取りに行ったけれど何十時間と待たされた。後から来た他の編集員に原稿が渡されたことに腹を立て、手塚にヅカヅカと歩み寄り…
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勝手にコソコソすんじゃねーよ!
と、手塚の頭をバチンと叩いて帰ってしまったそうだ。その後、社長と二人で謝りに行くのだけれど、これがきっかけで秋田書店の原稿は遅れなくなったとのこと。怪我の功名というかなんと言うか、これも壁村の人柄の成せる業なんでしょうね。

73年になって手塚は虫プロ商事と虫プロダクションが倒産して どん底状態。少年サンデーに原稿を持ち込んでもダメだったという低迷期でした。そこに手を差し伸べたのが壁村。「死に水をとる」格好で連載を始めたのが「ブラック・ジャック」。当初は数回で終わるつもりだったけれど、約10年間で全242話に及ぶ人気作になろうとは誰が思っただろう。

前述の漫画と「ブラック・ジャック」も相成って、1979年新年合併号には発行部数250万部を達成。この時期の少年週刊誌で一番売れたのはジャンプでもマガジンでもありません。チャンピオンなんです!
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その最たるエピソードがこれ。編集部員がスキーしに深夜特急に乗った際に1車両だけ積み荷で一杯だった。それは見渡す限りの週刊少年チャンピオン。これを見て涙が止まらなかったそうだ。今ではトラック輸送だろうけれど、こうやって地方に運ばれていたと思うと それだけで物語が書けます。

このようにチャンピオンの黄金期を築いた壁村耐三。1981年まで9年間編集長を務めるわけですが、まさか85年に二度目の編集長に返り咲くとは思いもしなかっただろうね。
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